認識の進化

認識とは、動物が外界に関する情報を自らの中に蓄え、その行動を制御しながら生命維持に役立たせるための仕組であり、一言でいえば、世界像である。人間が、他の動物を遥かに超えるほどの高度な認識能力を備えていることは、誰も否定しようのない事実であるが、その認識能力とて、人間に至って突然現れてきたものではなく、進化の歴史の中で段階を踏みながら獲得されてきたものである。その道行を論理的に辿ってみることなしには、人間の認識能力のあり方を正しく理解することはできない。

定型反応
認識の最も原初的な形態は、特定の刺激に対して特定の反応を行なうという単純な定型反応である。定型反応は既に、ゾウリムシなどの単細胞生物にも見られる。学校の理科の時間に教わる「走性」と呼ばれる反応がその典型である。光・音・化学物質などを感知すると、それに向かって動いて行ったり、それから遠ざかったりする。なぜこのような反応が身についているかと言えば、その反応の仕方が生存に有利に働くということが高確率で起こり、その反応を遺伝的に内在化させた個体が生き残って個体数を拡大して行ったからである。このような定型反応が、本能と呼ばれる認識機構の原型をなしている。
因みに、定型反応は、我々人間においても、体内調節に関わる諸種の反応という形で生命維持に重要な役割を果たしている。呼吸・循環・消化といった中心的な体内調節からもっとミクロレベルの細胞反応に至るまで、我々の体内の様々なレベルで起こる反応の大半は定型反応であり、我々は、これを手足を動かすように直接には制御することができない。
統合的外界像と本能
認識進化の次の段階は、複数の感覚器官から入ってきた情報を統合して、統一的な外界像を形成し、それを元に行動を決定するという段階である。感覚器官が外界の異なった種類の刺激(光・音・物質)に応じて分化すると、それに合わせて処理経路(神経系)も分化していくことになる。そうすると、複数の系統の感覚入力情報をまとめ上げて一つの統合的な外界像を形成し、そこから行動を決定し、運動器官をそれに合わせて制御するという仕組みが必要となってくる。この統合的な外界像こそが認識と言われるものの初期形態であり、それをハード面で担うのは、言わずと知れた脳という情報処理専用器官である。
ここにおいて初めて、外界からの情報を総合的に分析し、それに基づいて行動する、つまり、認識で意志決定をして行動するという活動形態が出現する。それまでは専ら定型反応に頼り、特定の刺激に対して予め遺伝的に決められた特定の行動をするという形でしか活動することができず、行動のあり方に柔軟性が見られなかったわけだが、認識の登場により、外部の状況に即応した形で柔軟に行動できるようになったということである。これは、動物の行動形態の進化上、画期的な新段階の登場であると言える。
もちろん、これで定型反応的な活動が消えてなくなるわけではない。それぞれの種の動物の生存に必要な行動のうち、定型化できるものは、遺伝的に内在化された情報として受け継がれ、認識のあり方を背後から強力に駆動する力として働くようになる。つまり、統合的外界像の成立により、定型反応機構から認識と本能が分化的に発展し、本能が認識を背後から駆動する形で媒介的に働くような仕組が出来上がったということである。
また、体内の生理的諸過程の大半も定型反応のまま残ることとなった。体内の諸反応は決まったリズムで恒常的に維持されることが必要不可欠であり、認識の偶然的あり方に左右されて始まったり止まったりするようでは、個体の生命維持に支障を来すことになりかねないからである。また生理機構的に見ると、体内の諸過程の大本は間脳から自律神経へと至る自律神経系で制御されるようになり、動物の外的行動を制御する大脳―運動神経系とは機構的に分離した情報処理系列をなすようになった。
記憶機構
さらに次の段階に入ると、これに記憶というものが加わる。記憶が登場するまでは、個体は、遺伝的に受け継いだ定型的行動しかすることができない。しかし、記憶という仕組みを持つことにより、個体が経験から得た情報のうち生活過程にとって重要なものを脳に貯蔵し、それを必要に応じて意識に取り出して来て、行動決定の際に用いることができるようになる。また、それまでは“今”しか存在しなかった外界像に、“過去”という拡がりが出来てくることに注意しなければならない。
記憶情報には、情報の一般性のレベルから考えて、論理的に2つの段階を区別することができる。一つは、個別の事例情報である。これは、個別の経験そのままの記憶情報であり、自分の生活環境の中で、水や餌のありかがどこにあるか、といったような事柄である。この種の情報は、記憶対象の側に変化がなければ、行動の指針として役立つものである。
もう一つの段階はパターン情報である。多くの個別事例に接する中でそこに共通する物体・動き・繋がりなどが見出される場合、その共通性をパターンとして記憶するのである。パターンは、個別事例の中の各事例ごとに異なる部分は捨象して抽出されるものなので、記憶対象の側に変化があったとしても、パターンに反しない限り“同じ”ものとして扱うことができる。つまり、それだけ状況への対応能力に関して柔軟性が高まるということである。
一般化と推測能力
個別事例の情報からパターンを抽出するというのは一般化能力の現れである。一般化能力が備われば、目の前の状況にそのパターンが当てはまるかどうかを吟味し、それにどのように対応すればどのような結果になるかを予測することができるようになる。いわば、頭の中で行動のシミュレーションができるようになるのである。推測能力の登場である。そして、これにより、行き当たりばったりの行動ではなく、生存・繁殖にとって有利に働く状況をある程度予測しながら行動するということができるようになるのである。
我々人間ほどではないにしても、高等哺乳類にこの能力が備わっていることは疑いようがない。でなければ、群れをなして、仲間と様々なコミュニケーションを行いながら行動したり、環境の大きな変化に対応して行動パターンを大きく変えたり(e.g. 人間に飼われて芸を仕込まれる)することなどできないはずだからである。
ただ、人間と他の動物が大きく違うのは、動物の一般化・推測能力が生存・繁殖の必要性に規定されているのに対して、人間の認識はそのような制約からほとんど解放されているということである。これは一方で、高度の柔軟性を持ち、学問・芸術・宗教といった人間特有の文化活動を生み出す源泉になるのだが、他方で、突拍子もない妄想や幻想に突っ走る可能性をも持つことになったということでもある。
コミュニケーション
動物が捕食行動や縄張り争いや求愛行動をするようになれば、他の個体の行動を分析しながらこちらの出方を決めるというような認識のあり方が発達してくることになる。これは、他の個体の認識のあり方を推測するという認識活動を(原初的な形であれ)含んでいるという意味で、コミュニケーション(認識の交流)へ向けての進化の第一歩だと言える。
更に、集団生活をするようになると、仲間の個体と何らかの形で協力行動を取らねばならなくなる。ここにおいて、仲間に何らかのシグナル(発声、身振り、グルーミング etc.)を出し、仲間の方も、それを何らかの意味を持つものとして解釈するという本格的なコミュニケーションが現れることになる。尤も、動物の場合、生活の中での行動が単純で定型的なものが多いため、人間ほど多様な内容を持つことはない。が、それでも、猿や類人猿では、他の個体の認識のあり方を頭の中で推測し、それをもとに他の個体にコミュニケーション的な働きかけ(親和的から敵対的なものまで多種)を行なうことがある、という事実には注目しておくべきである。
認識のあり方一般と同様に、人間においては、コミュニケーションの方法・内容が多様化し、本能の制約と個体経験の狭い範囲という限界を突破するというところが、他の動物と大きく異なるところである。