多細胞生物

地球上に生物が誕生したときには、生物は単細胞体の形を取っていたことであろう。そしてまた、その進化史前半部のほとんどを単細胞体まま過ごしてきたことであろう。しかし、約5億年前の古生代カンブリア紀の前になると、多くの細胞が一体となって一つの身体を形成する多細胞生物が登場する。単細胞生物から多細胞生物への進化がどのような道筋で進んだかは謎のままであるが、ここで重要なことは、多細胞化により、今日の我々に繋がるいくつかの特質が生まれてきたということである。

細胞の分業化と遺伝子
身体が多細胞化するということは、身体の異なった部分が異なった機能を持つようになるということである。言い換えれば、身体を構成する細胞が分裂して増えていく際に、単純に同じ細胞が増えていくのではなく、それぞれ別の機能を持った細胞になっていき、それらが、分業しながら全体としての一体性を維持するような体制を構築していくということである。
ということは、当然、そのような体制を可能にする遺伝子の仕組みができてくることを意味する。というのも、多細胞個体の生物の核の中にはどれも同じDNAが格納されているわけで、個体の中で細胞分裂が進み、それぞれの細胞が異なった身体部分へと機能分化していく際には、遺伝子の中必要な特定部分のみを設計図として用いながらタンパク質合成を行なっていくわけであり、そのような、特定部分に特化された遺伝子だけを必要に応じて発現させる仕組みが、DNAの中に組み込まれていなければならないはずだからである。
代謝機構の発展
単細胞体においては、細胞膜の外は既に外界である。従って、代謝は細胞膜を通しての物質のやり取りすればよい。ところが、多細胞体においては、身体表面に位置する以外の細胞は、外界と接してはいない。そこで、外界との必要物質のやり取りを媒介する活動が必要になってくる。身体素材の合成やエネルギー生成のために必要な有機物や酸素を身体内に取り込み、体内の各細胞へと送り、不要になった物質を引き取って体外へと排出する活動である。この活動が食・消化・吸収・排泄及び呼吸である。また、この活動を実現する仕組みとして、消化器系・呼吸器系・循環器系の諸器官が分化してくることになる。
体内連絡機構の発展
多細胞化し、身体各部分が働きを異にする諸器官へと分化していくと、その分化した諸器官が互いに協働しながら、全体としての一体性を持った生命活動を維持していくために、体内の細胞間および諸器官間の情報のやり取りを実現する仕組みが必要となる。そのような体内の連絡機構として、神経系および内分泌系の機構が分化してくる。前者は、情報を電気的な形に変えることで情報の瞬時的伝達を実現し、後者は化学物質の分泌・循環を通じて、体内に継続的に働きかける。
寄生生物と免疫
多細胞化するということは、単細胞生物に比べて遥かに巨大な身体を持つということであり、その巨大化した身体が、単細胞体やその他の微小生物にとって生活環境となり得るということでもある。ここに、生物どうしの寄生・共生関係や感染症の進化史的起源がある。と同時に、多細胞生物の側での、有害微生物を駆除する仕組み、即ち免疫機構の成立を促す契機でもある。
特に、免疫機構の中でも中心的役割を果たす白血球のステータスは独特である。白血球はそれ自体が一つの細胞だが、通常の体細胞のように特定の場所に固着して存在するわけではなく、一つ一つが独立して、体内を循環している。つまり、身体の中にありながら、身体からは物理的に独立している。しかも、ガン細胞を退治するNK細胞や自己免疫疾患に見られるように、体外からの侵入者のみならず、自己の体細胞をも攻撃することがある。言い換えれば、多細胞体にとって、自己の一部でありながらも他者的な性格を強く持った細胞集団であるということができる。
繁殖
単細胞生物では、細胞=身体なので、繁殖は単純な細胞分裂であるが、多細胞生物では、細胞≠身体であるため、そうはいかなくなってくる。分裂してできた新しい細胞が、親個体とは別の個体として分離し、新たな多細胞体になっていく必要があるからである。そのため、繁殖専用の器官と細胞が分化することになった。生殖器官と生殖細胞である。生殖細胞は、最初は一つの細胞なのだが、一体性を維持したままの細胞分裂を通じて、親個体とは別の個体に成長していく。
多細胞生物というのは、その体制が複雑であればあるほど、成体に達するまでに長い成長期間が必要である。ここに、多くの下等生物で見られる幼生の存在理由がある。まだ多細胞体としての身体が未熟で成体としての生活をすることができない間、暫定的な身体構成とそれ専用の生活形態を用いて、成体になるまで生き抜いていくということなのである。
更には有性生殖という繁殖形態が出現する。単細胞生物では、繁殖において遺伝的変異を作り出す手段は、細胞分裂の際のDNAのコピーミスだけであった。しかし、多細胞生物の多くにおいては、同種の異なった個体がそれぞれのDNAを半分ずつ出し合って新たな個体を作り、新個体の遺伝的多様性を作り出すという繁殖方法が登場した。これが有性生殖と呼ばれるものである。有性生殖においては、種の中の個体が雌雄分化し、それぞれに異なった特徴を持つような方向に進化していった。
単細胞生物においては、細胞が何らかの原因で代謝を維持できなくなれば、そこでその個体は死ということになる。だが、多細胞体では、体内の細胞が一つ死んだからといって、それが即、個体の死を意味するわけではない。体内の細胞全体が代謝を維持できなくなって初めて「死んだ」ということになる。身体維持という点から見れば、体細胞がある程度の期間で死に、新たな細胞が分裂して生まれることにより、細胞更新が行われることは、個体全体の生命維持にとってはむしろ必要不可欠の過程である。これを新陳代謝と呼ぶ。新陳代謝がどのくらいのサイクルで行われるかは、身体部位によって異なっているが、新陳代謝があるということは、個々の細胞が寿命を持つようになったということを意味している。
一方、個体全体も寿命を持つようになる。単細胞体であれば、破壊されたり、何らかの外部的な原因で代謝が阻害されたりしない限り、個体は分裂しながらずっと生き続けるが、多細胞生物のほとんどは、成長して繁殖を終えると体が弱り始め、ついには死を迎えるような仕組みになっている。その仕組みの詳細は未だ不明であるが、おそらくは個体数が無限に増えていくのを制限する自然の摂理のようなものであろう。
新陳代謝と身体の可塑性
多細胞個体の体内で細胞の新陳代謝が行われるようになると、環境からの刺激のあり方に応じて身体を可塑的に作り直していくということができるようになる。古くなった細胞や壊れた細胞を廃棄し、新しい細胞を創り出す過程で、季節・気象やその他の環境変化や個体の成長状況に応じて、身体の構成を適応的に変えていくことができるようになるわけである。多くの動物で見られる季節的身体変化や変態などはその好例である。また、我々人間にあっても、生活状況に応じて、筋肉・骨・神経・血管・内臓などが作り替えられ、時には強化されたり、また衰退したりすることになる。