労働と経済

我々は、食料を初め、必要な生活物資の大半を、社会という集団の中で調達する。現代の我々の日常生活を振り返って見ればすぐわかるように、衣食住全般にわたって、必要な物資を自然から直接に自力で生産したり、取得したりしているわけではない。主に、他人の労働の成果として提供されている生産物を、お金と引き換えに入手しているのである。そして、そのお金はというと、自分が何がしかの労働を行い、その成果と引き換えに入手している。これは、社会全体で見るならば、お金を媒介にして労働の成果を交換していることになるのである。ある程度文明の発達した社会ではどこでも、成員相互の労働の成果の交換を、貨幣を媒介にした形で行なっているが、このような、社会全体で労働の成果を交換する仕組のことを経済という。

動物における労働
人間以外の動物においては、労働は基本的に個体単位で行われ、その成果も(子育て中を除けば)個体単位で消費されるものである。わかりやすく言えば、餌は自分の力で確保し、自分で消費するということである。例外として、肉食獣の一部に、集団で狩りを行い、捕食動物の肉を分け合うものがいたりするが、労働の成果の分配は高々そのレベルにとどまる。また、餌とり以外でも、繁殖のための巣を作る作業があるが、巣の製作はほとんど個体(或いは、つがい)単位で行われ、巣の建材も個体が自力で調達してくるのが普通であり、建材製作の専門家に依頼して作ってもらうなどということはない。
人間の労働
人間段階に至って初めて、本格的な集団的労働や、その成果の集団内での共有・分配・交換が行われるようになる。労働は、個人が自分のためだけに行なうものなのではなく、その成果が社会的に共有・分配・交換されることを前提に行なわれるものなのである。食物を調達するにしろ、衣服を作るにしろ、家を建てるにしろ、その成果を個人で消費するだけでなく、他人と共有したり、分配したり、交換したりすることにより社会が維持されていくのである。そして、このような社会的関係(特に交換関係)の中に置かれることにより、労働の成果が他人の目から評価されるということが起こってくる。つまり、労働の社会的貢献度が査定され、それに何らかの価値付けが行なわれるようになるのである。この価値認識こそが、経済と呼ばれる社会現象成立の最も根源的な土台をなすものである。
もちろん、そうは言っても、原始的生活の段階では、家族あるいはそれに類する小集団の中で、狩猟採集で調達した食物を分け合ったり、衣服・建材・道具などを融通しあったり、といったことが主であり、「交換」という経済現象の第一歩が登場するためには、そういった小集団どうしが恒常的に且つ友好的に接触する場が必要であった。
交換
労働の成果の交換という現象が登場するためには、別々の小集団(家族)に属する個人どうしが、それぞれの労働の成果を持ち寄って、互いの事情に応じてそれらを評価し、交換し合う場が必要となる。これは、最初のうちは、生産物のうち、小集団の中でたまたま自家消費することができなかったものを、互いに交換するという偶発的な形態を取っていたであろう。だが、交換を通じて、自分の集団の中では生産できないものが入手できるという利便性に気づくようになると、それぞれの集団あるいは個人が交換を目的に労働を行なうという生活形態が登場する。これこそ、本来の意味での「経済」の始まりである。
市場
労働の成果の交換が恒常的に行なわれる場所、それは市場である。市場が成立するためには、そもそも、市場に持ち込まれる品物が恒常的に生産される必要がある。つまり、人々が労働の成果を家族的小集団の中で消費(自家消費)してしまうのではなく、その一部あるいは全部が市場での交換目当てに生産され、市場に運び込まれねばならないのである。つまり、自家消費を超える生産が安定的に行なわれるようでなければ市場経済は成立しない。市場での取引形態の発展には大きく分けて2つの論理的段階が考えられる。
第1段階は、人々が、生産した品物のうち、自家消費を超える部分つまり余剰生産品のみを交換する場合である。この場合は、どのような品物を何とどれくらいの量で交換するかは、まったくその交換当事者の偶然的事情によって決まる。一般的には、交換当事者は、自分の品物はできるだけ少なく提供し、交換相手の品物はできるだけたくさん獲得しようとするものだが、交換相手の品物が是非とも欲しいという事情があれば、自分の品物を多く提供するであろうし、そうでもなければ、自分の品物は出し渋ろうとするであろう。また、日頃から親しくしている相手であったり、いろいろと世話になっている相手であれば、あまり厚かましい態度に出ることはできないということになるかもしれない。まさに、諸事情を考慮しながらの駆け引きの結果として、交換レートのあり方が決まるのである。
第2段階になると、人々が市場での交換を目当てにした生産を行なうようになる。つまり、商品の登場である。労働の成果が商品という形をとるようになると、ここに生産コストの意識が芽生えてくる。なぜなら、自家消費するわけでもないその品物を生産するためにも、それなりの労働が投入されているわけであり、その労働の手間・暇に見合うような品物が代わりに手に入るのでなければ、生産労働はまったくの無駄になってしまうからである。それでも原初的なレベルでは、労働の手間・暇を交換相手の商品で評価するというのは、まったく当事者どうしの主観的判断と駆け引きに拠るところが大きいであろう。しかし、同様の商品の取引に多くの人々が関わるようになれば、その多くの人々が納得できる交換レートすなわち相場というものが形成されるようになってくる。
第3段階になると、人々は労働のすべてを商品生産に投入するようになる。自家消費のための物資は、自分ではまったく生産せず、市場での交換を通じて調達しようとするのである。このような状況では、自分が作りだした商品が、自分(と家族)が生活していけるだけの物資と交換できなければ、人々は日々の生活を維持していくことはできない。つまり、
自分が生産した商品全部 = 生活に必要な物資全部
という交換レートでなければ、生産活動を維持していくことができないのである。ここにおいて、本来の意味での商品の原価(生産コスト)という観念が登場してくる。人間は生きていくためには必要な物資を何とか調達しなければならないわけだから、人々は、最低限でも原価を回収できるレートで自分の商品を交換することを目指して活動することになる。
貨幣
様々な商品の交換レートに相場が形成されるようになると、各種の商品の交換レートを単一の尺度で数値化して表す試みが行なわれるようになる。つまり、ある特定の品物がどんな商品とも交換できることを保証し、その品物の数量で各品物の交換レートを表すわけである。そうすれば、取引ごとに、商品どうしの組み合わせで異なる個別の交換レートを一々参照しなくても済み、市場での交換の効率を上げることができるからである。こうして、商品どうしの交換を媒介することを機能とする特殊な商品、すなわち貨幣が登場するのである。